三国時代
馬韓地域に属していたが、百済の近肖古王の時に百済に併合されて郡の名称を「伏忽」と呼んだ。
統一新羅時代
景徳王16年(757年)、郡県の名称を全部中国式に改正して、はじめて「宝城郡」と呼ばれるようになった。
高麗時代
- 成宗14年(995年)、節度使制度を導入しながら貝州に改称し、この時に別号として山陽と呼ばれるようになった。
- 顯宗9年(1018年)に行政制度を改編して、再び宝城郡と直して呼ぶようになり、知事郡として7つの属県を置いた雄郡になった。
朝鮮時代
- 太祖4年(1395年)、頻繁な倭冦の侵入で興陽県(高興)の治所を宝城郡の属県の兆陽県(現鳥城面)に移して兆陽が一時的に高興に属するようになった。
- 太宗9年(1409年)本郡に属していた南陽·泰江·道化·豊安の4県が興陽の管轄に置いて、兆陽県は本郡に還属された。
- 世宗12年(1430年)、一時に長興都護府の管轄に置いていたが、順天都護府に属するようになり、高宗32年(1895年)には羅州府の管轄だったが 1896年8月に光州府の管轄に置かれるようになった。
- 純宗2年(1908年)10月15日に樂安郡が廃止され、樂安郡の11面の中で 南下、南上、古上、古下の4つの面が古上面と南面で合わせて本郡に編入された。
日帝強占期
- 1914年日帝による大規模の行政区域改編が行なわれ、長興郡の長東面馬屹、栗里の一部と富平面金洞里の一部
- 順天郡東上面の細谷里一部、東下面の鳳林里一部、
- 高興郡大西面の南塘里一部と東面の下松里一部が本郡に編入された。
- 本郡の龍門面と玉巌面を合わせて宝城面に、
- 兼於面と白也面を合わせて兼白面に、
- 文田面と鳳德面を合わせて文德面に、
- 村面と松谷面を合わせて得粮面に、
- 兆內面と大谷面を合わせて鳥城面に改編した。
- 長興郡の会寧面と泉浦面を編入して会泉面に改編し、熊峙面を本郡に編入した。
- 1915年、古上面と南面を合わせて筏橋面を新設
- 1929年4月、順天郡東草面の連山、鳳林、回亭、壮陽、虎東の5里を筏橋面に編入
- 1937年7月1日に筏橋面を邑に昇格
- 1941年10月15日に宝城面が邑に昇格して宝城郡は2邑10面126里の行政区域になった。
大韓帝国時代
- 1973年7月1日、本郡文德面寒天里が昇州郡松光面に編入され、その代わりに1983年2月15日高興郡東江面獐島里とその海域が筏橋邑に編入
- 1984年に着工して1991年に完工された住岩多目的ダムの工事によって、本郡文德面の8里、福內面が7里、栗於面の2里の一部地域が水に浸かるようになり、
- 1988年2邑10面126つの法定里(行政里314)と593ヶ所の自然村で構成されており、
- 2009年12月16日宝城邑牛山4里を牛山4里と5里に分離して行政里が315里に変更された。
宝城郡